私のモヤモヤ吐き捨て場

主に自分の家族についてのモヤモヤ吐き捨て場。ただ吐き出してスッキリしたい。

ブラック企業へ。

妹の事故後、私は転職をした。

はじめに勤めた会社は営業だったが、一年して向いてないなと感じデスクワークの仕事を探し無事に転職。

 

すんなり転職はうまく行ったが、これがブラック企業

悪いときは朝5時起き、夜11時帰宅。残業はほぼつかなかった。

やばいとは思っていたが、営業に比べたら…と考えなかなか辞められず。

 

しかも、数年たった頃

母が円形脱毛症に。

 

見つけたときは5円玉サイズだったのがどんどん無くなり、いつのにか髪はまだらに。

ネットで医療用ウイッグを購入し、母には仕事を辞めてもらい私の扶養に。

 

 

母をどうにかする、生活費を稼がないと、今後どうしたらいいのか。色々なことを考えながらがむしゃらに働いた。

 

 

母は仕事をやめ数カ月たったら、すっかり円形脱毛症はよくなりまた働いた。

が、それからやたらと金銭面を頼るようになり

 

車の税金や車の速度違反の罰金等…

そこそこ大きな金額が動いた。

 

 

自分の支払いもあるのになんでそこまでしなきゃならないのか…たしかに今までたいして生活費を入れていなかったから仕方ないとはいえ、貯金もどんどん無くなり当時結婚を考えるようになっていたのでかなり焦っていた。

 

 

このままではいざ結婚するとなっても何もできない。

最低限このぐらい貯金したいという明確な目標があったため、母と話し合った。

 

 

このままでは私も貯金ができない、正直焦っている。

私と母の生活リズムが違いすぎてお互いストレスが溜まっている。

今この状態はお互いの為にならない。

 

 

正直、父に頭を下げて実家に戻らせてもらい将来の為に貯金がしたい。

 

 

 

母は思いの外すんなりと受け止めてくれた。

 

今思えばこれで子育てから開放されると思ったのだろうか。

 

 

父もなぜかすんなり受け入れてくれて、新しい生活がはじまった。

妹の事故。

突然入った事故の報告と血まみれの妹。

さすがに嫌いは嫌いだが死んでほしいとまでは思っていなかったからか、そのときは動揺し涙も出た。

 

かなりショッキングだったが、結局大したことはなく

血も命に関わるレベルではなかった。

 

 

事故も話を聞いたら自業自得で

学校の研修場所から深夜に男と抜け出し車で遊びに出かけようとしたところ、街灯もない所だったこともあり障害物がみえず思いっきりぶつかったらしい。

 

 

父が学校から連絡をうけ、病院へ行きその後の対応もしてくれた。

 

入院をしているわけでもないので母と私は会いに行かず、私は毎日連絡をとり経過をきいていた。

 

当時妹は運転していた男に腹を立てていたようで、よく愚痴を送ってきていたが

じゃあ抜け出さなきゃよかったし、自分だって悪いことしてるじゃん。

と、思っていたが口には出さなかった。また癇癪をおこしたら面倒だし。

 

 

この事故があってからは比較的仲良くはしていたと思う。

でも、ここで妹の感覚がおかしいと気づいて距離をおいていればよかった。

母との生活。

ボロボロアパートはゴキブリは出るし、隙間風がびゅーびゅー、和式トイレに点火式のお風呂。

父からは毎月5万円が口座に振り込まれていたが、それでも生活費が足りず栄養失調で二人共倒れた事もあった。

 

 

でも、今思えばよく毎月かかさず振り込んでくれていたなぁと思うし

そもそもお金を食ではなく、服等にまわしていたから栄養失調になったのでは?とも思うが

それは母が年頃の私の気持ちをくんでやってくれていたことであり、当時の生活費がどのぐらいかかっていたのか今となってはわからないのでなんとも言えないし誰もせめられはしない。

 

時々母は妹と会ったり、ボロボロアパートに連れてきたりもしたが私は当時かなり妹の事が嫌いで顔も見たくない状態。

 

両親からの私の対応と妹への対応が全く異なることや、自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起こす妹への姉妹としての愛情は全くなかった。

その為バラバラになったときも特に心配はしなかったし、父に「姉妹一緒に暮らしたいだろう」と言われたときも「別にそうは思わない。」とまで言った。

 

 

だから、妹が来たときの私の態度はまぁ、ひどかった。妹は母と居たかったのだろうが早く帰ってほしかった。

 

 

母との生活は喧嘩も多かったが、苦ではなかった。

やりたいことがあればアルバイトで稼いだお金でどうにかしたし、通学も駅を利用していたがアパートから遠かったためバス通学にしてどうしても頼らなければならないこと以外は母には頼らなかった。

 

社会人になるころには父とも和解。門限の件ははっきり謝ったわけではないが、父も触れられたくないのか今でも当時の話はしない。

それでも実家に帰るという手段をとれなかったのは、母の存在があったから。

 

私は社会人になり、妹も進学。

 

会社にもなれてきたころ

 

妹が事故にあった。

私の家族。

父、母、妹、私

の4人家族。

 

父は単身赴任で家に居ないことが多く、金曜日のよるに帰ってきて日曜日の夜には単身赴任先へ戻って行っていた。

それでも、当時はうまくやっていってるのだと思っていた。

 

これが崩れたのが私が高校生のころ。

 

 

母が突然出て行った。

 

 

母の実家に帰ったわけではなく、ボロボロのアパートを借りそこへ逃げた。

父が言うには何も話し合い等はなかったらしい。

 

そして同じ頃私も父から言われた門限を破ってしまい、実家を追い出されしかたなく母のところへ。

これは私が全面的に悪い。今は和解して父とは仲良くしているが、当時の父からしてみれば突然出ていった母の元に長女が行ったのだから敵に見えたのではないだろうか…

 

突然追い出されたので、後日父がいない間に荷物を取りに行ったら「お前は出ていったんだから勝手にあがるな」と電話で言われた。

その電話でもう帰れないんだな。と判断し大人になるまで実家には帰らず父から連絡がない限り連絡もしなかった。

 

そして残された妹は父の実家に預けられることになった。

 

なぜ、妹は母のところに来なかったのかというと

母が迎えに行けなかったからだ。

パートの収入だけでは子供二人は無理だと考えたのだろう…今となっては真相はわからないが

 

そんなこんなでバラバラにはなったが、どこかさめていた私は

まぁ、父と母といえど元は他人だし仕方ない。

と割り切っていました。

 

自分が結婚して子供を産んだ今は

もっと話し合えばよかったのに!子供の事は考えないのか?子供に何も伝えず出ていく方も、追い出した方も育児放棄と同じなんじゃないの?!

とは思いますが、過ぎたことなので…

 

 

父→単身赴任

妹→父の実家

母、私→ボロボロアパート

 

という別居生活のスタート。

はじめに。

はじめまして、もち子と申します。

 

このブログは自分の実家に対してのモヤモヤを心にとどめているのが辛くなってしまったため、吐き出すために作成しました。

 

時々主人に話したりしていますがそれでも辛いのです。

 

そんなとき、紙に書いたら気持ちが少しスッキリした事を思い出しました。

 

 

紙に書かない理由は2つあります。

1.同じ境遇の人がいたら少し心が楽になりそうだな。と思った。

2.もし自分の子供が目にしてしまったら嫌だから。

とくに2、子供は私の実家の問題に巻き込みたくないのです。

 

 

身バレしない程度にところどころフィクションを交えつつ、吐き出していこうと思います。